この1963年の一連の録音は、すぐに米国で発売されて大反響を呼んだ。幸運なことに、これらのレコードが、その年の米誌ハイファイ・ステレオ・レヴュー誌の「おそらく、かつて作られた最もリアルなギター録音」という絶賛を引き出すところとなった。結果、マニタスの世界デビューの大きな引き金となったのである。後年のジプシー・キングスの世界デビューと同じく、アメリカが彼らのよき理解者であったと言える。
日本でも同様に、その音楽性より、むしろ各種のレコードやオーディオ雑誌に優秀録音として紹介された。筆者がこの種のジプシー音楽を知る前に、たまたまCD「Juerga!」 *7)を持っていたのは、その理由による。
後に分かったことであるが、彼のこの時の録音は、日本でオーディオファンの装置の診断用30 cm LP、45 rpm として発売されている*8)。ダイナミック・レンジのチェックや針飛びの調整に使われたのである。まさにそれほどの優れた録音だった。
そしてついに1968年、マニタスはその飛行機嫌いをおして、ホセと長男マネロ (Manero Baliardo のちにManero de Plataと呼ばれる)を引き連れ、アメリカ・ツアーを行なう。
その時の音源は「At Carnegie Hall」*9)として残っている。つまり、世界中に知られるギタリストになったのである。
(注6:King Record KICP 315)
(注7:Connoisseur Society CD 4126)
(注8:「Flamenco Fantasy」 Nippon Philips 45S-18)
(注9:Omega OVC 8086)
ホセの独立と死
1963年の世界デビュー以来、マニタスは精力的にアルバムを発表した。それらのすべてのアルバムにホセは参加していたが、1974年になって、ホセはマニタスをゲストに迎え、自分の息子達、ポール(Paul)、カヌー(Canut)、パチャイ(Patchai)、ニコラ(Nicolas)を従え、初のリーダー・アルバムJose Reyes e Los Reyes 「Sombre de Noche」 *10) を発表した。
それが契機になったのだろうか。1975年のマニタスのアルバム 「Libres Como el Viento」 *11)を最後に、ホセはマニタスと袂を分かつことになった。
これまでにマニタスとホセの残したアルバムは、世界デビュー以来、ゆうに20枚を超えている。一説には、マニタスが次第に、自分の兄弟や息子や甥達を重用し始めたために、ホセが離れたと言われている。
独立したホセは、上述の息子達と娘婿のチコ(Chico)を加えてJose Reyes e Los Reyes を正式に立ち上げ、1977年に 「Gitan Poete」 *12)を発表した。マニタスの音とは違って、よりポップ色の強い音楽路線を進むことになる。これが現在のジプシー・キングスのルーツとなった。
ホセは、続いて1978年にもアルバム 「L'amour d'un jour」 *13)を発表したが、1979年に肺がんのため、この世を去った。享年51歳だった。
ホセの死後、悲しみを乗り越えた息子達は、 Los Reyes の名前を引き継ぎ、地元での活動を開始した。様々なカフェやレストランで演奏を行ない、生活の糧にしていたと思われる。当時の作品が、1982年録音の 「Fete des Saintes-Maries-de-la-Mer」 *14)として残っている。
ここにはパチャイとチコはいないが、当時の彼らのサウンドが良く表現されている。オリジナリティの高い曲が並び、今のカマルグ系ジプシー・ルンバのルーツとなっていることが良く分かるが、一方、演奏スタイルはまだまだ洗練されたものとは言えない。特に、優れたリードギタリストの不在から、全体の完成度および洗練度が、マニタスの数多のアルバムと比べ、低く感じられてしまうのは否めない。おそらく、レイエス家の兄弟達自身も、そう思ったに違いない。
一方、モンペリエのマニタスの一族であるバリアルド家は、マニタスはもとより弟イポリテ (Hippolyte Baliardo) や彼らの息子達が、相変わらず活躍して数々のアルバムを発表していた。そこに時々マニタスのライブに呼ばれて演奏していた兄弟がいた。ディエゴ(Diego)、パコ(Paco)、トニーノ(Tonino)の3兄弟である*15)。
そして、彼らの父親達がそうだったように、レイエス兄弟とバリアルド兄弟はサント・マリーで出会うのである。彼らは、お互いの才能については、周りの評判から既に知っていたと思われるが、優れたギタリストが欲しいレイエス兄弟、歌手が欲しいバリアルド兄弟、それぞれの思惑が一致して、ともに演奏するようになったのである。*16)
その後も、機会がある度に集まって、アルルやサント・マリーのカフェやレストランで演奏することになった。理想的なサウンドを持つバンドになり、オリジナル曲を次々と歌う彼らの評判は、日に日に高まっていった。
そしてある日、評判を聞いたプロデューサーが、彼らにアプローチしてくることになったのである。プロデューサーの名前は、ジャクリーヌ・タルタ(Jacqueline Tarta)。彼女は、カマルグのジプシー音楽のよき理解者であり、それまで、バリアルド一族のマノロ(Manolo)のプロデューサーをしていた人物だった*17)。
新生 Los Reyes の魅力に取り付かれた彼女は、1982年に「Allegria」を、1983年に「Luna de Fuego」を相次いで発表*18)。 Los Reyes の名前は、南フランスを中心に知られるようになったのである。
その後も、メンバーは Los Reyes として活動を続けた。パリでコンサートを開き、彼らの才能は更にフランス国内でも知られるようになった。女優ブリジット・バルドーとの交遊は、この頃からである。*19)しかし、中東を含め周辺諸国をツアーで廻ったりしたものの、これら2枚のアルバムの売れ行きは伸びず、残念ながら、次のレコーディングの話は来なかった。2枚のアルバムを聴けば良く分かるが、彼らの音楽は、既に現在のジプシー・キングスの完成度に到達しており、逆に若々しさが大きな魅力となって我々を魅了する。1983
年以降、しばらくの間、彼らの残した音源が無いのは、全く残念としか言いようがない。次の音源は、ジプシー・キングスとして世界デビューする機会を与えた、次のプロデューサー、クロード・マルチネス(Claude Martinez)が現れる、1986年まで待たねばならない。
(注14:Tudor 801)
(注15:Diego 達3兄弟の祖父とマニタスの父が兄弟の関係にある)
(注16:レイエス家の娘婿チコが、レイエス家とバリアルド家の合体を画策したと言われている。特にトニーノに惚れ込み、ともに演奏することを強く望んだという)
(注17:Manolo「Guitare de Oro」 LP Philips 834 294-1、CD Columbia 471351-2が彼女のプロデュース)
(注18:「Allegria」 LP Columbia COL 4667621、CD Columbia COL 466762 2、 「Luna de Fuego」 LP Philips 834 064-1、CD Columbia COL 466762 2)
(注19:サントロペ〈地名〉の楽器店の店主が、店に出入りをしていた Los Reyes のメンバー達に、ブリジットのパーティでの演奏を依頼したのが始まりと言われている。)