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すべてはサント・マリー・ド・ラ・メールから始まった
The Encounter of Reyes & Baliardos

  • 巡礼

    南フランスのアルルから車で40分ほど南へ行くと、サント・マリー・ド・ラ・メール(Les Saintes-Maries-de-la-Mer)という町がある。ここは、昔、3人のマリア(聖母姉妹のマリア、ヨハネとヤコブの母マリア、マグダラのマリア)が、キリストの死後に流れて来た場所と言われている。マグダラのマリア以外の2人は、この町に住み、ここで生涯を終えたそうだ。サント・マリーの教会には、ここに残った2人のマリアの十字架、そして彼女達の召使いであった黒人サラの十字架と人形がある。黒人のサラは、ジプシー出身と言われ、ジプシーの守り神として今も信仰されている。
    その後、この町は巡礼地として栄え、特にジプシーの巡礼地として有名になった。実際に、この町には5月と10月にジプシー達の巡礼があり、各地から沢山のジプシーが集まって来る。そして、ジプシー達は思い思いに街角で歌い踊るのである。
    このサント・マリー・ド・ラ・メールから東へ行くと、バカレス湖(Etang de Vaccares)を中心とした湿原地帯に到達する。ここは、ヨーロッパにおける自然の聖域と言われ、野生のフラミンゴや野鳥、水牛などが生息し、牧童達が白い馬で駆け廻る光景は、フランスというイメージからは想像できない雰囲気である。ローヌ川の二つの支流と地中海に挟まれたバカレス湖を取り囲む三角州(デルタ)の一帯を、カマルグ地方(Camargue)という。
    ジプシー・キングスの音楽で馴染みの深いカマルグ系ジプシー・ルンバは、フラメンコをそのルーツとして、この地方で歌い継がれ発展した音楽である。



  • マニタスとホセ

    そのサント・マリーから更に西へ100キロほどのところに、モンペリエ(Montpellier)という町がある。ここに素晴らしい早弾きのフラメンコギター奏者がいると、ジプシー仲間で有名だった。名前をリカルド・バリアルド(Ricardo Baliardo)といい、その優れたギターテクニックから マニタス・デ・プラタ:小さな銀の手(Manitas de Plata)と呼ばれていた*1)。
    一方、サント・マリーから50キロほど北方にある町、アルル(Arles)にはカンテ・ホンド(深い歌)の名手 ホセ・レイエス(Jose Reyes)がいた*2)。スペイン内戦の戦火を逃れ、この地に流れて来たホセは、その歌の実力だけでなく、面倒見の良い性格から、アルルのジプシー集団のリーダー的存在として尊敬されていた。
    マニタスは1921年生まれ、ホセは7才年下の1928年生まれである。彼らは毎年の巡礼祭に出向いて行っては、歌や演奏をジプシー達の前で披露していたに違いない。二人の最初の出会いがいつかは分からない。しかし、ホセが声変わりをしたと思われる1940年代後半か1950年頃には、二人が一緒に歌い演奏した、と想像するのは容易である。ジプシー仲間の一番のギタリストと歌い手が毎年の巡礼祭の時に会い、周りにせがまれてはパーフォーマンスをしていたと想像される。
    1955年の巡礼祭の様子を録音した 「Pelerinage Aux Stes-Maries-de-la-Mer」 というLP*3)がある。マニタスのディスコグラフィーを見ると、この音源が、一番古く記録された彼らの音である。様々なジプシーの演奏が記録されている中に、間違いなくマニタスとホセが共演している音源がある。この時、マニタスは34才、ホセは27才。既に、この時から彼らのスタイルは確立されていて、以後、発表されていく彼らの数々の音源と遜色無い完成レベルにある。因みに、ほとんどの曲が即興演奏である。マニタスのギターは自己流であり、後に正統フラメンコを知る人々から異端児扱いされるわけだが、ここで聴かれる
    音楽は、独自の世界を創出していて、聴く人の心を掴んで離さない。まさに、彼らは、才能あふれた野生の、しかし、素晴らしい音楽家であった。
    その後、特にマニタスの評判は、フランス中に広がり始め、ついにはソロアルバムを出すことになる。1955年以降1960年までの間と思われるが、定かではない。ディスコグラフィーでは、単に「MANITAS DE PLATA」がタイトルになっている*4)。
    1962年にも、マニタスの弟や息子と一緒に演奏した「Disque Pirate Enregistre aux Stes-Maries-de-la-Mer」 *5)というアルバムも出している。
    南フランスにフラメンコギターの名手がいるという噂が広まり、パブロ・ピカソやチャーリー・チャップリン、ジャン・コクトーらの文化人が、バカンスで南フランスに行く度に、マニタスとその一族を呼んで演奏をさせることが多くなった。マニタスは、彼ら有名人のパーティに呼ばれる度に、自分の弟や息子達とともに歌い手として、ホセを同行することが多かった。

    (注1:日本ではマニタスと書いてある図書が多いが、発音はマニタ。ここではマニタスに統一する。また Reyes の発音はレジェス、 Baliardo の発音はバジャルドだが、それぞれレイエス、バリアルドとしている)
    (注2:ホセはスペイン語読みで、フランス語ではジョゼと発音する。)
    (注3:Disques Vogue, LVLX 261
    (注4:Barklay S80294。他に「The Excitement of Manitas de Plata」、「Manitas de Plata Proles et Music」、「The Guitar Artistry of Manitas de Plata」、「Flaming Flamenco Vol.1」という名前で発売されている。)
    (注5:SPR 20045)




  • 世界へ

    徐々に有名になったマニタス。本人が望んだわけではないが、ついに世界へ羽ばたく時が来た。筆者が色々述べるより、日本盤CD「ジプシー・フラメンコ」のライナー・ノーツをそのまま引用したほうがよいだろう*6)。米国のプロデューサー、E・アラン・シルバーの文章である。(一部要約)

    「私が初めてマニタス・デ・プラタの名前を聞いたのは1955年のことだった。同業者のマルク・オーボールが南フランスのバカンスから帰って来た。彼はレ・サントマリー・ド・ラ・メールのジプシー・フェスティバルに行って、分解しそうな古テープレコーダーで1部を録音してきた。その中で若いギタリスト、マニタス・デ・プラタに完全に魅了され、レコード録音の許可を求めたという。しかし手紙を出しても返事は来ず、アーティストと連絡がとれないので企画は断念された。
    61年の秋、「タイム」誌に、マニタスがリビエラで大反響を巻き起こしているが、頑なに録音を拒否しているという記事が載った。その1週間後に私は偶然ニューヨーク近代美術館に、フランスの写真家リュシアン・クレルグの展覧会を見に行き、ジプシーや闘牛の素晴らしい写真を見た。そこでクレルグをつかまえ、写真を買いたいといい、マニタスを知っているかと尋ねた。彼はマニタスの非常に近しい友人だった。あの男の芸術を広く知らせるのは大変重要なことだと思っていたので、コニサー・ソサエティへの録音のためにマニタスにコンタクトしてくれることになった。最後には、マニタスはようやく了承してく
    れた。
    私達はマニタスが冬の間に住んでいるアルルに着いた。ホテルの隣にある、中世の礼拝堂が録音に使えることになった。そこの音響条件は望む限り完璧なものだった。ジプシー達や何人かの友達を招いていたので、クレルグの奥さんがサンドイッチと、サングリアの巨大な桶を用意してくれた。興味深いことに、演奏するジプシー達は、セッションが終わるまで大好きなドリンクに一滴も口をつけないのだった。マニタスがまだ私達に聴かせたいものが残っているというので、次の晩も録音することにした・・・・・・・」

    この1963年の一連の録音は、すぐに米国で発売されて大反響を呼んだ。幸運なことに、これらのレコードが、その年の米誌ハイファイ・ステレオ・レヴュー誌の「おそらく、かつて作られた最もリアルなギター録音」という絶賛を引き出すところとなった。結果、マニタスの世界デビューの大きな引き金となったのである。後年のジプシー・キングスの世界デビューと同じく、アメリカが彼らのよき理解者であったと言える。
    日本でも同様に、その音楽性より、むしろ各種のレコードやオーディオ雑誌に優秀録音として紹介された。筆者がこの種のジプシー音楽を知る前に、たまたまCD「Juerga!」 *7)を持っていたのは、その理由による。
    後に分かったことであるが、彼のこの時の録音は、日本でオーディオファンの装置の診断用30 cm LP、45 rpm として発売されている*8)。ダイナミック・レンジのチェックや針飛びの調整に使われたのである。まさにそれほどの優れた録音だった。
    そしてついに1968年、マニタスはその飛行機嫌いをおして、ホセと長男マネロ (Manero Baliardo のちにManero de Plataと呼ばれる)を引き連れ、アメリカ・ツアーを行なう。
    その時の音源は「At Carnegie Hall」*9)として残っている。つまり、世界中に知られるギタリストになったのである。

    (注6:King Record KICP 315)
    (注7:Connoisseur Society CD 4126)
    (注8:「Flamenco Fantasy」 Nippon Philips 45S-18)
    (注9:Omega OVC 8086)



  • ホセの独立と死

    1963年の世界デビュー以来、マニタスは精力的にアルバムを発表した。それらのすべてのアルバムにホセは参加していたが、1974年になって、ホセはマニタスをゲストに迎え、自分の息子達、ポール(Paul)、カヌー(Canut)、パチャイ(Patchai)、ニコラ(Nicolas)を従え、初のリーダー・アルバムJose Reyes e Los Reyes 「Sombre de Noche」 *10) を発表した。
    それが契機になったのだろうか。1975年のマニタスのアルバム 「Libres Como el Viento」 *11)を最後に、ホセはマニタスと袂を分かつことになった。
    これまでにマニタスとホセの残したアルバムは、世界デビュー以来、ゆうに20枚を超えている。一説には、マニタスが次第に、自分の兄弟や息子や甥達を重用し始めたために、ホセが離れたと言われている。
    独立したホセは、上述の息子達と娘婿のチコ(Chico)を加えてJose Reyes e Los Reyes を正式に立ち上げ、1977年に 「Gitan Poete」 *12)を発表した。マニタスの音とは違って、よりポップ色の強い音楽路線を進むことになる。これが現在のジプシー・キングスのルーツとなった。
    ホセは、続いて1978年にもアルバム 「L'amour d'un jour」 *13)を発表したが、1979年に肺がんのため、この世を去った。享年51歳だった。

    (注10:CBS 80142)
    (注11:Versailles VER4781322)
    (注12:Tudor 806)
    (注13:Tudor 807)



  • 再びサント・マリーでの出会い

    ホセの死後、悲しみを乗り越えた息子達は、 Los Reyes の名前を引き継ぎ、地元での活動を開始した。様々なカフェやレストランで演奏を行ない、生活の糧にしていたと思われる。当時の作品が、1982年録音の 「Fete des Saintes-Maries-de-la-Mer」 *14)として残っている。
    ここにはパチャイとチコはいないが、当時の彼らのサウンドが良く表現されている。オリジナリティの高い曲が並び、今のカマルグ系ジプシー・ルンバのルーツとなっていることが良く分かるが、一方、演奏スタイルはまだまだ洗練されたものとは言えない。特に、優れたリードギタリストの不在から、全体の完成度および洗練度が、マニタスの数多のアルバムと比べ、低く感じられてしまうのは否めない。おそらく、レイエス家の兄弟達自身も、そう思ったに違いない。
    一方、モンペリエのマニタスの一族であるバリアルド家は、マニタスはもとより弟イポリテ (Hippolyte Baliardo) や彼らの息子達が、相変わらず活躍して数々のアルバムを発表していた。そこに時々マニタスのライブに呼ばれて演奏していた兄弟がいた。ディエゴ(Diego)、パコ(Paco)、トニーノ(Tonino)の3兄弟である*15)。
    そして、彼らの父親達がそうだったように、レイエス兄弟とバリアルド兄弟はサント・マリーで出会うのである。彼らは、お互いの才能については、周りの評判から既に知っていたと思われるが、優れたギタリストが欲しいレイエス兄弟、歌手が欲しいバリアルド兄弟、それぞれの思惑が一致して、ともに演奏するようになったのである。*16)
    その後も、機会がある度に集まって、アルルやサント・マリーのカフェやレストランで演奏することになった。理想的なサウンドを持つバンドになり、オリジナル曲を次々と歌う彼らの評判は、日に日に高まっていった。
    そしてある日、評判を聞いたプロデューサーが、彼らにアプローチしてくることになったのである。プロデューサーの名前は、ジャクリーヌ・タルタ(Jacqueline Tarta)。彼女は、カマルグのジプシー音楽のよき理解者であり、それまで、バリアルド一族のマノロ(Manolo)のプロデューサーをしていた人物だった*17)。

    新生 Los Reyes の魅力に取り付かれた彼女は、1982年に「Allegria」を、1983年に「Luna de Fuego」を相次いで発表*18)。 Los Reyes の名前は、南フランスを中心に知られるようになったのである。
    その後も、メンバーは Los Reyes として活動を続けた。パリでコンサートを開き、彼らの才能は更にフランス国内でも知られるようになった。女優ブリジット・バルドーとの交遊は、この頃からである。*19)しかし、中東を含め周辺諸国をツアーで廻ったりしたものの、これら2枚のアルバムの売れ行きは伸びず、残念ながら、次のレコーディングの話は来なかった。2枚のアルバムを聴けば良く分かるが、彼らの音楽は、既に現在のジプシー・キングスの完成度に到達しており、逆に若々しさが大きな魅力となって我々を魅了する。1983
    年以降、しばらくの間、彼らの残した音源が無いのは、全く残念としか言いようがない。次の音源は、ジプシー・キングスとして世界デビューする機会を与えた、次のプロデューサー、クロード・マルチネス(Claude Martinez)が現れる、1986年まで待たねばならない。

    (注14:Tudor 801)
    (注15:Diego 達3兄弟の祖父とマニタスの父が兄弟の関係にある)
    (注16:レイエス家の娘婿チコが、レイエス家とバリアルド家の合体を画策したと言われている。特にトニーノに惚れ込み、ともに演奏することを強く望んだという)
    (注17:Manolo「Guitare de Oro」 LP Philips 834 294-1、CD Columbia 471351-2が彼女のプロデュース)
    (注18:「Allegria」 LP Columbia COL 4667621、CD Columbia COL 466762 2、 「Luna de Fuego」 LP Philips 834 064-1、CD Columbia COL 466762 2)
    (注19:サントロペ〈地名〉の楽器店の店主が、店に出入りをしていた Los Reyes のメンバー達に、ブリジットのパーティでの演奏を依頼したのが始まりと言われている。)




  • 新たな出会いを

    マニタスとホセの出会いからほぼ半世紀。アルルとモンペリエのミュージシャン*20)の出会いは、我々に素晴らしい音楽を残してくれた。世代は交代している。我々は、若い世代の優れたミュージシャンを、既に何人も知っている。その予備軍もたくさんいるに違いない。音楽は、彼らの伝統であり、生活の糧であるから。
    サント・マリーの巡礼祭。ここでの更なる新たな出会いと、もっともっと斬新なカマルグ・ジプシー音楽の誕生を期待している。何故なら、我々は、この地方の伝統から発展した、フラメンコでもラテンでもシャンソンでもない、彼ら独自の音楽スタイルに魅了されているから。

    (注20:アルルを中心に在住する音楽一家はReyes、Regis、Patrac、Maille、Amador、Serviolleなど。一方、モンペリエにはBaliardo、Vila、Motos、Bissiere、Cargol、Arenas, Soles、Agatiなどがいる。)

    Juanito しんどう
    2003年12月12日
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